結局のところ、報道なり出版なりというものは、作る側の意図が含まれます。
最近、私がちょっとだけ注目しているのは、「死刑廃止論」を唱える人たちの動向です。
どんな人にでも生きる権利があり、だれかれあろうと他人にそれを止められることはあってはならない。彼らの主張です。
海外では死刑のかわりに、終身刑があり、何があろうと一生刑務所から出さない、という仕組みの国もあるそうです。
全世界的に見ても、死刑を制度として残している国は減っており、そのうち、死刑制度を残す国は少数派になるのかもしれません。
それでも、死刑判決が出る容疑者が、客観的に見てすごい悪くてその判決も致し方ない、という場合、死刑廃止論の人たちの声を聞くことはありません。
もしかしたら、何かしらのアクションをしているのかもしれません。でも、それはほとんどの場合、報道されません。
日本の国民性として、どこかで勧善懲悪が根付いているのでしょう。悪い奴は打ち首だ、失敗した奴は腹を切れだの、そうなっても仕方がないのだ、その人が悪いのなら、と、そう思っている人が多いのでしょう。
もっとも、死刑廃止論を唱える人の中には、冤罪の可能性を重視している人もおり、そういう人は、いま話題になっている事件のような場合は、出てこなくなっちゃうのでしょう。
本人の主張は、その本人が良い方向に成長した場合を除き、ブレがあってはいけない、と私は考えます。ただし、最終的に読者なり視聴者まで届くまでに第3者が介在する場合、その第3者のフィルタにより、その本人像が作り変えられている場合があるのです。
したがって、その人を本当に知りたいなら、報道なり出版物なりを鵜呑みにせず、実際に会いに行って話をしてみるしかないのですよね。